集落の概要
瀬留
かつて役場庁舎や各種施設が設けられ教育・経済・交通の中心として発展しました。
以前はセケルベ(瀬花留部)、スルブ(瀬留部)と呼ばれていましたが、郵便の誤送や集落名の誤記などがあり不便だったため、大正8年に「瀬留」と改称されました。
瀬留を称して俗に「スルブヨワサ(お腹がすいた)」という言葉があります。その語源は「瀬留では催し物などがたくさんあり、それを見物するのに夢中になって食べることを忘れたため」とか、「医者の多いところであったので診察待ちでお腹のすいた経験をよくしたから」、また「来客があっても玄関口で応対して帰したため」など様々な説があります。
江戸時代、慶応年間には薩摩藩が白糖製造のために、アイルランド人の建築・機械技師ウォートルスや白糖製造技師のマッキンタイラーを招いて技術指導に当たらせました。この工場の跡地付近では、当時燃料として使用していた石炭が土中から出てくるという記録が昭和63年頃に残されています。
瀬留集落と玉里集落との間にある山は「タアグスク(高城)」と呼ばれ、集落所有の神山とされます。昔、海賊が攻めてきた時、人々が山の上から石を投げたり、カメケーラシ(かめを転がすこと)をして敵を防いだと言われており、現在でもかめの破片などが見られ、古戦場の名残をとどめています。
潮が引いたときに龍郷湾の浅瀬に現れるのが「カキ(垣)跡」で、瀬留の沖で見られます。浅瀬に石を積んで垣を巡らし、潮の干満を利用して魚を獲る漁法で、平家が伝えたと言われていることから「平家漁法跡」とも呼ばれます。
現在の九州電力竜郷発電所の辺りや商工会の前などにもあったそうですが、埋め立てや道路の工事で現在はほとんど姿を消してしまいました。
玉里
平成4(1992)年に瀬留集落から分離して、新たに集落となったのが「玉里集落」。
昭和52年に着工された龍郷湾の瀬留沖の埋め立て工事は2年後に竣工し、埋立地には九州電力竜郷発電所や県営住宅が次々に建設されるなど、工業団地と新興住宅地として発展してきました。
人口が増加してきた平成4年の集落指定後、平成16年3月に集落民の交流拠点として玉里コミュニティーセンターが完成。それまで集落の寄り合い等は県営住宅の集会所を利用していたため、玉里集落民にとっては待ちに待った完成に。
町内・外からの入り込みの住民が多く、他の集落に比べて年齢的に若い世帯が多いのが特徴。また、集落独自の伝統や文化の継承がないため、八月踊りは集落発足当時に八月踊りのリーダーが瀬留集落の出身者だったことから、玉里集落では瀬留の踊りが踊られています。